ロイヤル少女まんが賞 コミカライズ賞 原作小説
帝都おしどり夫婦の国家機密
病弱な旦那様は冷酷軍人×可愛い奥様は撃墜王!?
――ここは帝都。帝が御座し、花を咲き誇らせている都。
近年、伝統を守りつつも列強の文化を積極的に取り込んでいる帝都の民は、朝は新聞を読み、昼はカフェで珈琲を飲んで蓄音器から流れる音楽に耳を傾け、乙女達は頭にリボンをつけて行灯袴を翻し、電灯が点る夜を迎えるようになっている。
明るく華やかな文化が花開く一方、闇に包まれていたものが明らかにもなっていくのがこの時代の特徴であった。
――この世界には、化け物がいる。
どこの国にも、どこの地方にも、正体不明の黒い化け物のことは知られていた。文明開花によって明るい夜が生まれたことで、ついに誰の目にも化け物の姿を捉えることができるようになり、『スネカ』と名付けられることになったのだ。
人々はスネカに怯えて暮らすしかない……というわけでもない。どの時代にも、化け物退治を生業にする者たちが存在している。
「『スネカ』だ! 近づきすぎるな! 早くヤマトとナデシコを呼べ!」
真夜中の帝都に、警らの軍人の吹く警笛が鋭く鳴り響く。
帝国軍に属する帝都特殊捜査班、通称『ヤマト』。
宮内省に属する帝都特別警護班、通称『ナデシコ』。
異なる組織ではあるけれど、どちらもスネカに対抗できる能力を持ち、スネカを排除することを目的とする者達で構成されていた。
「――邪魔だ、下がれ」
帝都の民を守るため、スネカを取り囲んでいた巡回の軍人たちは、突然冷たい声を浴びせられる。
なんだお前はと軍人達が叫ぼうとしたが、見知った腕章に気づいて慌てて口を閉ざした。
「ヤマトだ……!」
現れたのは、同じ帝国軍の軍服を着ているけれど、インバネスコートを羽織って腕章をつけ、軍帽を深くかぶっているヤマトの隊員達だ。
ヤマトは、スネカに傷をつけることができる能力者のみで構成されている。
彼らはサーベルをすらりと抜くなり、とろりと闇に溶け込んだ。
次の瞬間、スネカが人には発することのできないぞっとする悲鳴を上げた。
「種は植えた! ナデシコはまだか!?」
ヤマトの隊員が叫べば、塀の上から可憐な声が降ってくる。
「ここに」
扇子で顔を隠した髪の長い少女が、髪を彩るリボンと着物の袖と袴を夜風に遊ばせながら立っていた。
「いきます!」
ぱちんという扇を閉じる音と共に、清らかな声が凛と響く。
「咲み坐せ、祓へ坐せ、浄め坐せ、鎮め坐せ。花は咲き咲き散り給え!」
ヤマトがスネカに傷をつけることができる者なら、ナデシコは種から花を咲かせることができる特殊能力者だ。
花を咲かせるための養分は『スネカ』である。ヤマトの隊員によってスネカに埋め込まれた種は、ナデシコの少女の声に反応し、芽を出した。
一つめの瞬きの間に茎や葉はどんどん成長していき、二つ目の瞬きの間に太い幹となり、薄紅色の花を咲かせる。
「スネカは……」
警らの軍人はあっという間の出来事についていけない。
気がついたらスネカが消えていた。
代わりに花桃の木が生えていて、風と共に花びらがひらひらと舞っていた。
「撤収するぞ」
ヤマトの隊員が号令をかけたときには、ヤマトの隊員も、ナデシコの少女も姿を消している。
警らの軍人達は、スネカ退治が終わったことを知り、息を吐いた。
「……これは、花桃の木ですか?」
年若い軍人が花を咲かせる木を見上げると、近くにいた別の軍人が頷く。
「ああ。ということは、ナデシコの撃墜王がきてたのか。あっさり片付いたわけだ」
「あっさり片付かないときもあるんですか?」
「よくある。俺たちは運が良かったよ」
ヤマトもナデシコも、スネカを倒せる能力をもっているが、そう簡単にスネカを消滅させられるわけではない。大怪我をすることもあるし、命を落とすこともある。
危険な仕事にその身を捧げているヤマトとナデシコの正体は、謎に包まれていた。
久世淡雪は、帝都生まれの帝都育ちの十六歳。
幼いころに両親を事故で亡くしてから、弟を我が子のように育ててきた。
弟が帝国幼年学校に入学して寄宿舎暮らしを始めたとき、ようやくひと息つけた。寂しくなるなとしみじみしていたら、待っていましたと言わんばかりに親戚が見合いを持ってきてくれたのだ。
「こちらは鷹司紘人君だ。元々は帝国軍人だったんだけれど、仕事が忙しくて身体を壊してしまってね。それからは帝国軍の書記官として働いていて……」
お見合い相手は、綺麗な顔立ちの優しそうな男の人だった。眼が合うとにこりと笑う。淡雪はどきどきしてしまった。
(こんな方がまだ独身だったなんて信じられないわ……!)
淡雪はそろそろ結婚を考えないといけない年齢だ。
両親はいない、財産は小さな家だけ。その家は弟に残しておきたい。
そんな条件の娘をもらってくれる人はなかなかいないだろうから、半ば結婚を諦めていた。
こんな機会はもう二度とめぐってこないかもしれないと、色々なことを考えているうちに紘人と二人きりにされ、一緒に庭を眺める。
「もう少し前だったら桜が綺麗に咲いていたのですが……」
緑色しか見せない桜の木の前で立ち止まった紘人が、申し訳なさそうに呟く。
淡雪は葉桜を見上げ、そんなことはないと紘人に笑いかけた。
「散った桜も素敵ですよ」
「淡雪さんは葉桜の方が好みなんですか?」
「葉桜も好きです。来年どう咲くのか楽しみになります」
淡雪の満面の笑みにつられたのか、紘人も笑った。
「つぼみのときはどうですか?」
「あと少しで咲くと思うとわくわくします」
「花は?」
「もちろん大好きです! お花見の準備をします」
「花が散っているところは?」
「しっかり見ておいて、綺麗な光景をいつでも思い出せるようにしておきます」
桜は一年中楽しめると淡雪が主張すれば、紘人が声を立てて笑う。
「淡雪さんと一緒にいると、きっと毎日が楽しいだろうなぁ」
紘人の無邪気な笑顔に、淡雪の胸が甘くきゅっと痛んだ。何気ない褒め言葉だとわかっていても、紘人のことを一気に意識してしまう。
「また会ってくれますか?」
別れ際の紘人の一言が、淡雪の運命を変えた。
次に会ったときも、庭で穏やかに話をした。その次も庭で話をした。
ただそれだけだったけれど、淡雪にとってとても楽しいひとときになっていたのだ。
「淡雪さんと庭を見ているだけでも、僕はすごく楽しいんです」
ある日、紘人がぽつりと呟いた。淡雪はこのとき、紘人となら大丈夫だと確信した。
身体が丈夫ではない紘人を支えつつ、あたたかくて幸せな家庭をつくっていけるだろう。
慎ましすぎる結納を済ませ、慎ましい結婚式を挙げ、小さな一軒家に二人で暮らし始めて三か月経った。
新婚生活は順調で、信じられないほど幸せだ。
「旦那さま、おはようございます」
「おはようございます。ああ、今日は淡雪さんもお仕事の日でしたね」
淡雪は制服に着替えてきた紘人に朝の挨拶をし、お弁当を急いで詰める。
淡雪の職場は宮中だ。ご縁があって、皇女の話し相手という仕事をずっとしていた。
一度は結婚退職をしたけれど、最近になって復帰し、週に三日ほど参内している。
「旦那さま、私は先に出ますね。お弁当はそこに置いておきましたから」
「ありがとう。……淡雪さん、待って。リボンが」
出かけようとした淡雪は紘人に呼び止められ、髪を飾るリボンを直される。
「そうだ、今度どこかの温泉にでも行って、ゆっくりしましょうか」
紘人がにこりと淡雪に笑いかけた。仕事に復帰したばかりで慌ただしくしている淡雪を気遣っているのだ。
淡雪は「嬉しいです」と言いたくなったけれど、ぐっと堪える。
「駄目です! これからのことを考えて節約しないと!」
これから、という言葉に、紘人はたしかにと頷いた。
「そうですね。子どもが生まれたら物入りですし……」
紘人の口からぽろりとこぼれた言葉に、淡雪と言った本人の紘人の両方が反応する。
二人で顔を赤くし、照れ合ってしまった。
(子ども……そうよね、そうよね……!)
紘人の顔色はいつだってあまりよくない。ふらふらと帰ってくることもよくある。
淡雪は紘人の妻として、夫の身体を労ることを最優先していたので、夜は早々に寝るようにしていたのだけれど、落ち着いたら……と更に顔を赤くする。
「あの、子どもは、もう少し旦那様の身体が回復したら、一緒にがんばりましょうね」
「そ、そうですね……!」
淡雪はえへへと笑えば、紘人も笑い返してくれる。
幸せを噛み締めた淡雪は、元気よく「いってきます!」と挨拶をして家を出た。
うきうきしながら道を歩き、宮中へ向かう。宮中に入る手前で一旦立ち止まり、襟や帯を直したあと、人妻らしい落ち着きを見せなければとはっとし、静々と足を運んだ。
「淡雪さま、おはようございます」
「おはようございます」
参内した淡雪は、すれ違う女官と挨拶を交わしながら皇女の宮の庭に向かう。
庭には色とりどりの花が咲き誇っていて、淡雪の瞳を楽しませてくれた。
「あ、芍薬のつぼみだわ」
淡雪は扇子を取り出し、軽やかにぱっと広げたあと、ぱちんと勢いよく閉じる。
その音が合図になったかのように、芍薬のつぼみは膨らみ、ふわりと大きな花を咲かせた。
淡雪は美しい芍薬の花にそっと触れ、うんと頷く。
鷹司淡雪、十六歳。
結婚したばかりの若奥様は、皇女様の話し相手という仕事をしている。
……というのは、表向きの姿だ。
淡雪の真の姿は、帝都特別警護班、通称『ナデシコ』所属の警護官。
そして、ナデシコの――……『撃墜王(エース)』でもある。
淡雪はナデシコで働いていることを紘人にも内緒にしていた。
なぜなら、ナデシコは秘密の組織で、働いている者はその事実を家族に黙っておかなければならないという規則があるのだ。
「いっぱい働いて、稼がないと!」
一度は結婚退職をした淡雪が元の職場に戻ってきたのは、金が理由である。
夫の紘人は身体を壊して書記官になったけれど、それでも帝国軍の仕事は忙しいらしく、夜遅くまで働いていて、よく顔色を悪くして帰ってくることもある。これではいつまで経っても紘人の身体は回復しない。
「お金を貯めたら、旦那様と半年ぐらいゆっくり湯治に行って……」
そして、念願の……と幸せ家族計画に頬を染めた。
帝国軍に属する帝都特殊捜査班、通称『ヤマト』。
帝国軍人であっても、どこにヤマトの職場があるのかを知らないほどに、その存在は徹底的に隠されていた。
「『ナデシコ大活躍!』いやいや、俺たちも頑張っていますよね、隊長」
昼休み、ヤマトの隊員達が集まる部屋では新聞が回し読みされている。
副官に声をかけられた鷹司紘人は、冷ややかな眼を向けた。
「うるさい。新聞ぐらい静かに読め」
「はいはーい。しっかし、なんでナデシコの撃墜王は三か月も消えていたんでしょうかねぇ。やっぱり怪我ですか? 復帰してくれてこっちはほっとしましたけれど」
副官はうるさいと言われても、口を閉じることはない。
紘人はため息をつき、無言で弁当箱を取り出す。
「……慎ましい弁当ですねぇ、隊長」
新聞を読んでいた副官が、新聞から紘人の弁当の中身に興味を移した。
白米に、梅干しに、卵焼きに里芋の煮物。
紘人はこっちを見るなという意味を込めて、黙って副官を手で払う。
「いやぁ、泣く子も黙るヤマトの冷酷無比な隊長殿が、家に帰れば病弱で優しい書記官を演じていると思うと、涙が出るほど笑えます」
それでもめげずに話しかけてきた副官を、紘人は無視した。
鷹司紘人、二十二歳。
新婚生活を楽しんでいる優しい旦那様は病弱で、帝国軍の書記官をしている。
……というのは、表向きの姿だ。
人の真の姿は、帝都特殊捜査班、通称『ヤマト』所属の軍人。
スネカから国民を、そしてナデシコの少女達を守るため、日々厳しい訓練に励み、部下をひたすら叱り飛ばしている。
ヤマトはナデシコと同じく秘密の組織のため、ヤマトに所属していることを家族にも隠すことになっていた。
脱いだら凄い身体でも病弱だと言い張らなければならないし、朝帰りがよくあることでも書記官をしているだけだと言い訳をしなければならないのだ。
「ヤマトの隊長であることを誤魔化すために嫁を迎えろって強要されたと言っていた割には、家でかなりいちゃついてますよね」
「人の家を覗くのはやめろ」
紘人は、上司からそろそろ結婚しろと命じられ、仕方なく見合いをした。
結婚相手に淡雪を選んだのは、彼女には両親も財産もなくて、こちらに文句を言えなさそうな娘だったからだ。
優しい言葉をかけ、仕事のための結婚をし、適当に夫婦生活をするだけのつもりだったが、予想外の事態になった。淡雪はあまりにも魅力的な人だったのだ。
(俺の妻は帝都で一番可愛い)
かつての自分は、友人や部下がこんなことを言ったら『色ボケもいい加減にしろ』と冷たい眼で見ただろう。
――しかし、今は違う。
自分の妻の笑顔が最高に可愛く、健気で優しいことをもう知っているのだ。
そして、誰にもその笑顔を見せたくないし知られたくないという同担拒否派でもあった。
帝都の夜は、電灯のおかげで随分と明るくなっている。
しかし、電灯がないところでは、どこを歩いているのかがわからなくなるほど暗い。
闇を好むスネカは、電灯のないところを歩く一般市民の悲鳴によって通報されることが多かった。
悲鳴のあと、帝国軍人による鋭い警笛の音が闇を切り裂き、スネカが現れたことを皆に知らせる。
「ヤマトとナデシコを呼べ! 急げ!」
「一般人の避難を!」
警らの軍人達が慌ただしく動く中、不意に軍人の人数が増えた。
あっと思ったときには、ヤマトの腕章をつけた軍人がいて、塀の上に顔を扇子で隠したナデシコが立っている。ヤマトとナデシコの顔は、電灯のないこの場ではよく見えない。
「いくぞ!」
ヤマトの隊員達はナデシコの少女の顔を知らないまま、ナデシコの少女達はヤマトの隊員達の顔を知らないまま、それでも互いを信じて戦う。
「咲み坐せ、祓へ坐せ、浄め坐せ、鎮め坐せ 花は咲き咲き散り給え!」
扇子を閉じる音を合図にして、スネカはあっという間に木の養分となり、花を咲かせた。
花桃の花が咲いたとき、ヤマトの隊員たちはようやくナデシコの撃墜王がきていたことを知る。そのぐらい、ナデシコの事情がわからないのだ。
「撤収を……」
ヤマトの軍人がスネカが消えたことを確認し終えたとき、一人だけ異変に気づいた者がいた。
「いや、まだだ!」
ヤマトの部隊長として現場に出ていた紘人は、勢いよく振り返る。
塀の上にナデシコの少女が、そしてその後ろにスネカが忍び寄っていた。
「飛び降りろ!」
紘人の指示に、ナデシコの少女は迷わず従う。それだけではなく、扇子を後ろに投げつけ、スネカの視界を塞ぐという時間稼ぎもしてくれた。流石の判断だ。
紘人はふわりと降りてきた少女の身体を受け止める。同時に、厳しい訓練を受けている部下達が自分の代わりにスネカを斬りつけた。
「――花は咲き咲き散り給え!」
ナデシコの少女は、紘人に受け止められながらも自分の仕事をしっかり果たす。
二体目のスネカも無事に花の養分となり、紘人はようやく息を吐いた。
「大丈夫で……」
すか、と言い切る前に、べちんと勢いよくなにかで顔を叩かれる。
「きゃ〜〜〜〜!」
華奢な手のひらが、自分の顔を押さえていた。
ヤマトとナデシコは、それぞれ異なる秘密部署に所属し、互いに誰なのかを知られてはいけないことになっている。だから助けたナデシコの少女が顔を見られそうになって悲鳴を上げても仕方ないとわかっているのだが……。
「……自分の顔を押さえてもらえませんか?」
紘人がなんでこっちの顔を押さえるんだと冷たい声で指摘すると、彼女は慌てて手を離して自分の顔を覆った。
それをできるだけ見ないようにして地面に下ろし、落ちていた扇子を拾って渡す。
ナデシコの少女は扇子を受け取ってすぐに顔を隠し、ささっと闇に紛れて姿を消してしまった。
「隊長、お疲れ様です」
紘人が念のために周囲を警戒していると、副官に話しかけられる。
さっきの反撃はよかったと褒めてやろうとしたのだが、なぜか副官は首を傾げていた。
「……さっきのナデシコの撃墜王の声、隊長のところの可愛い若奥様に似てませんでした?」
「なにを言っているんだ?」
紘人は呆れた声を出す。
淡雪は虫を見るだけでも悲鳴をあげる可愛い嫁だ。スネカに遭遇したら恐ろしさのあまり気を失うだろう。
「いや、でもですね……」
「女の悲鳴は甲高い。区別なんてつくものか」
紘人は、間近で叫ばれて耳が痛かったとぼやく。
そのあとも本当に似ていたんですってという副官を徹底的に無視し、素早く撤収して、報告書を提出した。眠いと思いながら朝帰りすれば、淡雪が笑顔で迎えてくれる。
「おかえりなさい、旦那様」
昨夜の淡雪は、皇女の宿直をしているはずだから、自分と同じ朝帰りのはずだ。疲れているのにわざわざ玄関まで顔を出してくれて、本当に嬉しい。今からまた働けと言われても許せるぐらい癒された。
(淡雪がナデシコ……まさかな)
この華奢な身体からは、最前線で戦う姿が全く想像できない。
じっと淡雪を見ていたら、淡雪が首を傾げていた。
「どうしましたか?」
「実は昨晩、職場でひょろひょろだとからかわれてしまって」
隊員が聞いていたら「嘘つき!」と叫ばれるようなことを紘人は言いだす。
「それでは嫁一人も抱えられないと言われたんです。……抱えてみてもいいですか?」
昨晩、塀から落ちてきたナデシコの撃墜王を受け止めた。淡雪はあれよりも絶対に軽いだろう。
副官に全然違ったと言うためにも、抱き上げて確かめてみたくなった。
紘人が淡雪の返事を待っていると、淡雪が顔を真っ赤にする。
「重いからだめです!」
いいですよと言われると思っていた紘人は、想定外の返事に驚く。
「ええ……?」
「絶対にだめです! 持ち上がらなかったら恥ずかしくて死んじゃいます! もし旦那様の細い腕が折れちゃったりしたら……!」
頬を赤くして、それを両手で押さえ、瞳を潤ませる淡雪は可愛い。
やっぱりナデシコの撃墜王とはどこもかしこも違うとほっとした。
「大丈夫ですよ。淡雪さん一人ぐらい僕でも……」
「ですから、私が代わりに抱っこしますね! 大丈夫です、昔は弟を背負ったまま家事をしていましたから!」
淡雪が「えいっ」と可愛い声を出して、片腕で紘人の膝をすくい、もう片腕で背中を支えた。
紘人は、ひょいと持ち上がった自分の身体に言葉を失う。
「男の人って重たいですね……!」
淡雪は驚いたと言っているけれど、紘人はもっと驚いていた。
慎ましく暮らさなければならなかった可愛い嫁は、米袋や味噌を自分で買いに行っていて力をつけたのだろうと、なんとか納得しようとする。
淡雪はというと、紘人を降ろしながら、なぜか嬉しそうな顔をしていた。
「昨夜、お仕事でちょっと失敗してしまって落ち込んだのですが、旦那様のお顔を見たら元気が出ちゃいました」
「……本当に? 大丈夫ですか?」
心配そうな顔をする紘人に、淡雪は明るい声で答える。
「大丈夫です。転びそうになったところを男の人に助けてもらったんですが、怒られてしまって……」
「そんな冷たい人が宮中にいるんですか……!?」
紘人が信じられないと呟くと、淡雪は慌てて「私が悪かったんです」と付け加えた。
「声が旦那様に似ている気がしたんですけれど、やっぱり違いますね。旦那様はとても優しいですから」
ヤマトとナデシコに所属する者は、家族にも正体を秘密にしなければならない。
帝都で一番のおしどり夫婦である、病弱で優しい旦那様と可愛い若奥様は、ヤマトの冷酷無比の部隊長とナデシコの撃墜王であることを秘密にしたまま、今日も幸せに暮らしている。
近年、伝統を守りつつも列強の文化を積極的に取り込んでいる帝都の民は、朝は新聞を読み、昼はカフェで珈琲を飲んで蓄音器から流れる音楽に耳を傾け、乙女達は頭にリボンをつけて行灯袴を翻し、電灯が点る夜を迎えるようになっている。
明るく華やかな文化が花開く一方、闇に包まれていたものが明らかにもなっていくのがこの時代の特徴であった。
――この世界には、化け物がいる。
どこの国にも、どこの地方にも、正体不明の黒い化け物のことは知られていた。文明開花によって明るい夜が生まれたことで、ついに誰の目にも化け物の姿を捉えることができるようになり、『スネカ』と名付けられることになったのだ。
人々はスネカに怯えて暮らすしかない……というわけでもない。どの時代にも、化け物退治を生業にする者たちが存在している。
「『スネカ』だ! 近づきすぎるな! 早くヤマトとナデシコを呼べ!」
真夜中の帝都に、警らの軍人の吹く警笛が鋭く鳴り響く。
帝国軍に属する帝都特殊捜査班、通称『ヤマト』。
宮内省に属する帝都特別警護班、通称『ナデシコ』。
異なる組織ではあるけれど、どちらもスネカに対抗できる能力を持ち、スネカを排除することを目的とする者達で構成されていた。
「――邪魔だ、下がれ」
帝都の民を守るため、スネカを取り囲んでいた巡回の軍人たちは、突然冷たい声を浴びせられる。
なんだお前はと軍人達が叫ぼうとしたが、見知った腕章に気づいて慌てて口を閉ざした。
「ヤマトだ……!」
現れたのは、同じ帝国軍の軍服を着ているけれど、インバネスコートを羽織って腕章をつけ、軍帽を深くかぶっているヤマトの隊員達だ。
ヤマトは、スネカに傷をつけることができる能力者のみで構成されている。
彼らはサーベルをすらりと抜くなり、とろりと闇に溶け込んだ。
次の瞬間、スネカが人には発することのできないぞっとする悲鳴を上げた。
「種は植えた! ナデシコはまだか!?」
ヤマトの隊員が叫べば、塀の上から可憐な声が降ってくる。
「ここに」
扇子で顔を隠した髪の長い少女が、髪を彩るリボンと着物の袖と袴を夜風に遊ばせながら立っていた。
「いきます!」
ぱちんという扇を閉じる音と共に、清らかな声が凛と響く。
「咲み坐せ、祓へ坐せ、浄め坐せ、鎮め坐せ。花は咲き咲き散り給え!」
ヤマトがスネカに傷をつけることができる者なら、ナデシコは種から花を咲かせることができる特殊能力者だ。
花を咲かせるための養分は『スネカ』である。ヤマトの隊員によってスネカに埋め込まれた種は、ナデシコの少女の声に反応し、芽を出した。
一つめの瞬きの間に茎や葉はどんどん成長していき、二つ目の瞬きの間に太い幹となり、薄紅色の花を咲かせる。
「スネカは……」
警らの軍人はあっという間の出来事についていけない。
気がついたらスネカが消えていた。
代わりに花桃の木が生えていて、風と共に花びらがひらひらと舞っていた。
「撤収するぞ」
ヤマトの隊員が号令をかけたときには、ヤマトの隊員も、ナデシコの少女も姿を消している。
警らの軍人達は、スネカ退治が終わったことを知り、息を吐いた。
「……これは、花桃の木ですか?」
年若い軍人が花を咲かせる木を見上げると、近くにいた別の軍人が頷く。
「ああ。ということは、ナデシコの撃墜王がきてたのか。あっさり片付いたわけだ」
「あっさり片付かないときもあるんですか?」
「よくある。俺たちは運が良かったよ」
ヤマトもナデシコも、スネカを倒せる能力をもっているが、そう簡単にスネカを消滅させられるわけではない。大怪我をすることもあるし、命を落とすこともある。
危険な仕事にその身を捧げているヤマトとナデシコの正体は、謎に包まれていた。
久世淡雪は、帝都生まれの帝都育ちの十六歳。
幼いころに両親を事故で亡くしてから、弟を我が子のように育ててきた。
弟が帝国幼年学校に入学して寄宿舎暮らしを始めたとき、ようやくひと息つけた。寂しくなるなとしみじみしていたら、待っていましたと言わんばかりに親戚が見合いを持ってきてくれたのだ。
「こちらは鷹司紘人君だ。元々は帝国軍人だったんだけれど、仕事が忙しくて身体を壊してしまってね。それからは帝国軍の書記官として働いていて……」
お見合い相手は、綺麗な顔立ちの優しそうな男の人だった。眼が合うとにこりと笑う。淡雪はどきどきしてしまった。
(こんな方がまだ独身だったなんて信じられないわ……!)
淡雪はそろそろ結婚を考えないといけない年齢だ。
両親はいない、財産は小さな家だけ。その家は弟に残しておきたい。
そんな条件の娘をもらってくれる人はなかなかいないだろうから、半ば結婚を諦めていた。
こんな機会はもう二度とめぐってこないかもしれないと、色々なことを考えているうちに紘人と二人きりにされ、一緒に庭を眺める。
「もう少し前だったら桜が綺麗に咲いていたのですが……」
緑色しか見せない桜の木の前で立ち止まった紘人が、申し訳なさそうに呟く。
淡雪は葉桜を見上げ、そんなことはないと紘人に笑いかけた。
「散った桜も素敵ですよ」
「淡雪さんは葉桜の方が好みなんですか?」
「葉桜も好きです。来年どう咲くのか楽しみになります」
淡雪の満面の笑みにつられたのか、紘人も笑った。
「つぼみのときはどうですか?」
「あと少しで咲くと思うとわくわくします」
「花は?」
「もちろん大好きです! お花見の準備をします」
「花が散っているところは?」
「しっかり見ておいて、綺麗な光景をいつでも思い出せるようにしておきます」
桜は一年中楽しめると淡雪が主張すれば、紘人が声を立てて笑う。
「淡雪さんと一緒にいると、きっと毎日が楽しいだろうなぁ」
紘人の無邪気な笑顔に、淡雪の胸が甘くきゅっと痛んだ。何気ない褒め言葉だとわかっていても、紘人のことを一気に意識してしまう。
「また会ってくれますか?」
別れ際の紘人の一言が、淡雪の運命を変えた。
次に会ったときも、庭で穏やかに話をした。その次も庭で話をした。
ただそれだけだったけれど、淡雪にとってとても楽しいひとときになっていたのだ。
「淡雪さんと庭を見ているだけでも、僕はすごく楽しいんです」
ある日、紘人がぽつりと呟いた。淡雪はこのとき、紘人となら大丈夫だと確信した。
身体が丈夫ではない紘人を支えつつ、あたたかくて幸せな家庭をつくっていけるだろう。
慎ましすぎる結納を済ませ、慎ましい結婚式を挙げ、小さな一軒家に二人で暮らし始めて三か月経った。
新婚生活は順調で、信じられないほど幸せだ。
「旦那さま、おはようございます」
「おはようございます。ああ、今日は淡雪さんもお仕事の日でしたね」
淡雪は制服に着替えてきた紘人に朝の挨拶をし、お弁当を急いで詰める。
淡雪の職場は宮中だ。ご縁があって、皇女の話し相手という仕事をずっとしていた。
一度は結婚退職をしたけれど、最近になって復帰し、週に三日ほど参内している。
「旦那さま、私は先に出ますね。お弁当はそこに置いておきましたから」
「ありがとう。……淡雪さん、待って。リボンが」
出かけようとした淡雪は紘人に呼び止められ、髪を飾るリボンを直される。
「そうだ、今度どこかの温泉にでも行って、ゆっくりしましょうか」
紘人がにこりと淡雪に笑いかけた。仕事に復帰したばかりで慌ただしくしている淡雪を気遣っているのだ。
淡雪は「嬉しいです」と言いたくなったけれど、ぐっと堪える。
「駄目です! これからのことを考えて節約しないと!」
これから、という言葉に、紘人はたしかにと頷いた。
「そうですね。子どもが生まれたら物入りですし……」
紘人の口からぽろりとこぼれた言葉に、淡雪と言った本人の紘人の両方が反応する。
二人で顔を赤くし、照れ合ってしまった。
(子ども……そうよね、そうよね……!)
紘人の顔色はいつだってあまりよくない。ふらふらと帰ってくることもよくある。
淡雪は紘人の妻として、夫の身体を労ることを最優先していたので、夜は早々に寝るようにしていたのだけれど、落ち着いたら……と更に顔を赤くする。
「あの、子どもは、もう少し旦那様の身体が回復したら、一緒にがんばりましょうね」
「そ、そうですね……!」
淡雪はえへへと笑えば、紘人も笑い返してくれる。
幸せを噛み締めた淡雪は、元気よく「いってきます!」と挨拶をして家を出た。
うきうきしながら道を歩き、宮中へ向かう。宮中に入る手前で一旦立ち止まり、襟や帯を直したあと、人妻らしい落ち着きを見せなければとはっとし、静々と足を運んだ。
「淡雪さま、おはようございます」
「おはようございます」
参内した淡雪は、すれ違う女官と挨拶を交わしながら皇女の宮の庭に向かう。
庭には色とりどりの花が咲き誇っていて、淡雪の瞳を楽しませてくれた。
「あ、芍薬のつぼみだわ」
淡雪は扇子を取り出し、軽やかにぱっと広げたあと、ぱちんと勢いよく閉じる。
その音が合図になったかのように、芍薬のつぼみは膨らみ、ふわりと大きな花を咲かせた。
淡雪は美しい芍薬の花にそっと触れ、うんと頷く。
鷹司淡雪、十六歳。
結婚したばかりの若奥様は、皇女様の話し相手という仕事をしている。
……というのは、表向きの姿だ。
淡雪の真の姿は、帝都特別警護班、通称『ナデシコ』所属の警護官。
そして、ナデシコの――……『撃墜王(エース)』でもある。
淡雪はナデシコで働いていることを紘人にも内緒にしていた。
なぜなら、ナデシコは秘密の組織で、働いている者はその事実を家族に黙っておかなければならないという規則があるのだ。
「いっぱい働いて、稼がないと!」
一度は結婚退職をした淡雪が元の職場に戻ってきたのは、金が理由である。
夫の紘人は身体を壊して書記官になったけれど、それでも帝国軍の仕事は忙しいらしく、夜遅くまで働いていて、よく顔色を悪くして帰ってくることもある。これではいつまで経っても紘人の身体は回復しない。
「お金を貯めたら、旦那様と半年ぐらいゆっくり湯治に行って……」
そして、念願の……と幸せ家族計画に頬を染めた。
帝国軍に属する帝都特殊捜査班、通称『ヤマト』。
帝国軍人であっても、どこにヤマトの職場があるのかを知らないほどに、その存在は徹底的に隠されていた。
「『ナデシコ大活躍!』いやいや、俺たちも頑張っていますよね、隊長」
昼休み、ヤマトの隊員達が集まる部屋では新聞が回し読みされている。
副官に声をかけられた鷹司紘人は、冷ややかな眼を向けた。
「うるさい。新聞ぐらい静かに読め」
「はいはーい。しっかし、なんでナデシコの撃墜王は三か月も消えていたんでしょうかねぇ。やっぱり怪我ですか? 復帰してくれてこっちはほっとしましたけれど」
副官はうるさいと言われても、口を閉じることはない。
紘人はため息をつき、無言で弁当箱を取り出す。
「……慎ましい弁当ですねぇ、隊長」
新聞を読んでいた副官が、新聞から紘人の弁当の中身に興味を移した。
白米に、梅干しに、卵焼きに里芋の煮物。
紘人はこっちを見るなという意味を込めて、黙って副官を手で払う。
「いやぁ、泣く子も黙るヤマトの冷酷無比な隊長殿が、家に帰れば病弱で優しい書記官を演じていると思うと、涙が出るほど笑えます」
それでもめげずに話しかけてきた副官を、紘人は無視した。
鷹司紘人、二十二歳。
新婚生活を楽しんでいる優しい旦那様は病弱で、帝国軍の書記官をしている。
……というのは、表向きの姿だ。
人の真の姿は、帝都特殊捜査班、通称『ヤマト』所属の軍人。
スネカから国民を、そしてナデシコの少女達を守るため、日々厳しい訓練に励み、部下をひたすら叱り飛ばしている。
ヤマトはナデシコと同じく秘密の組織のため、ヤマトに所属していることを家族にも隠すことになっていた。
脱いだら凄い身体でも病弱だと言い張らなければならないし、朝帰りがよくあることでも書記官をしているだけだと言い訳をしなければならないのだ。
「ヤマトの隊長であることを誤魔化すために嫁を迎えろって強要されたと言っていた割には、家でかなりいちゃついてますよね」
「人の家を覗くのはやめろ」
紘人は、上司からそろそろ結婚しろと命じられ、仕方なく見合いをした。
結婚相手に淡雪を選んだのは、彼女には両親も財産もなくて、こちらに文句を言えなさそうな娘だったからだ。
優しい言葉をかけ、仕事のための結婚をし、適当に夫婦生活をするだけのつもりだったが、予想外の事態になった。淡雪はあまりにも魅力的な人だったのだ。
(俺の妻は帝都で一番可愛い)
かつての自分は、友人や部下がこんなことを言ったら『色ボケもいい加減にしろ』と冷たい眼で見ただろう。
――しかし、今は違う。
自分の妻の笑顔が最高に可愛く、健気で優しいことをもう知っているのだ。
そして、誰にもその笑顔を見せたくないし知られたくないという同担拒否派でもあった。
帝都の夜は、電灯のおかげで随分と明るくなっている。
しかし、電灯がないところでは、どこを歩いているのかがわからなくなるほど暗い。
闇を好むスネカは、電灯のないところを歩く一般市民の悲鳴によって通報されることが多かった。
悲鳴のあと、帝国軍人による鋭い警笛の音が闇を切り裂き、スネカが現れたことを皆に知らせる。
「ヤマトとナデシコを呼べ! 急げ!」
「一般人の避難を!」
警らの軍人達が慌ただしく動く中、不意に軍人の人数が増えた。
あっと思ったときには、ヤマトの腕章をつけた軍人がいて、塀の上に顔を扇子で隠したナデシコが立っている。ヤマトとナデシコの顔は、電灯のないこの場ではよく見えない。
「いくぞ!」
ヤマトの隊員達はナデシコの少女の顔を知らないまま、ナデシコの少女達はヤマトの隊員達の顔を知らないまま、それでも互いを信じて戦う。
「咲み坐せ、祓へ坐せ、浄め坐せ、鎮め坐せ 花は咲き咲き散り給え!」
扇子を閉じる音を合図にして、スネカはあっという間に木の養分となり、花を咲かせた。
花桃の花が咲いたとき、ヤマトの隊員たちはようやくナデシコの撃墜王がきていたことを知る。そのぐらい、ナデシコの事情がわからないのだ。
「撤収を……」
ヤマトの軍人がスネカが消えたことを確認し終えたとき、一人だけ異変に気づいた者がいた。
「いや、まだだ!」
ヤマトの部隊長として現場に出ていた紘人は、勢いよく振り返る。
塀の上にナデシコの少女が、そしてその後ろにスネカが忍び寄っていた。
「飛び降りろ!」
紘人の指示に、ナデシコの少女は迷わず従う。それだけではなく、扇子を後ろに投げつけ、スネカの視界を塞ぐという時間稼ぎもしてくれた。流石の判断だ。
紘人はふわりと降りてきた少女の身体を受け止める。同時に、厳しい訓練を受けている部下達が自分の代わりにスネカを斬りつけた。
「――花は咲き咲き散り給え!」
ナデシコの少女は、紘人に受け止められながらも自分の仕事をしっかり果たす。
二体目のスネカも無事に花の養分となり、紘人はようやく息を吐いた。
「大丈夫で……」
すか、と言い切る前に、べちんと勢いよくなにかで顔を叩かれる。
「きゃ〜〜〜〜!」
華奢な手のひらが、自分の顔を押さえていた。
ヤマトとナデシコは、それぞれ異なる秘密部署に所属し、互いに誰なのかを知られてはいけないことになっている。だから助けたナデシコの少女が顔を見られそうになって悲鳴を上げても仕方ないとわかっているのだが……。
「……自分の顔を押さえてもらえませんか?」
紘人がなんでこっちの顔を押さえるんだと冷たい声で指摘すると、彼女は慌てて手を離して自分の顔を覆った。
それをできるだけ見ないようにして地面に下ろし、落ちていた扇子を拾って渡す。
ナデシコの少女は扇子を受け取ってすぐに顔を隠し、ささっと闇に紛れて姿を消してしまった。
「隊長、お疲れ様です」
紘人が念のために周囲を警戒していると、副官に話しかけられる。
さっきの反撃はよかったと褒めてやろうとしたのだが、なぜか副官は首を傾げていた。
「……さっきのナデシコの撃墜王の声、隊長のところの可愛い若奥様に似てませんでした?」
「なにを言っているんだ?」
紘人は呆れた声を出す。
淡雪は虫を見るだけでも悲鳴をあげる可愛い嫁だ。スネカに遭遇したら恐ろしさのあまり気を失うだろう。
「いや、でもですね……」
「女の悲鳴は甲高い。区別なんてつくものか」
紘人は、間近で叫ばれて耳が痛かったとぼやく。
そのあとも本当に似ていたんですってという副官を徹底的に無視し、素早く撤収して、報告書を提出した。眠いと思いながら朝帰りすれば、淡雪が笑顔で迎えてくれる。
「おかえりなさい、旦那様」
昨夜の淡雪は、皇女の宿直をしているはずだから、自分と同じ朝帰りのはずだ。疲れているのにわざわざ玄関まで顔を出してくれて、本当に嬉しい。今からまた働けと言われても許せるぐらい癒された。
(淡雪がナデシコ……まさかな)
この華奢な身体からは、最前線で戦う姿が全く想像できない。
じっと淡雪を見ていたら、淡雪が首を傾げていた。
「どうしましたか?」
「実は昨晩、職場でひょろひょろだとからかわれてしまって」
隊員が聞いていたら「嘘つき!」と叫ばれるようなことを紘人は言いだす。
「それでは嫁一人も抱えられないと言われたんです。……抱えてみてもいいですか?」
昨晩、塀から落ちてきたナデシコの撃墜王を受け止めた。淡雪はあれよりも絶対に軽いだろう。
副官に全然違ったと言うためにも、抱き上げて確かめてみたくなった。
紘人が淡雪の返事を待っていると、淡雪が顔を真っ赤にする。
「重いからだめです!」
いいですよと言われると思っていた紘人は、想定外の返事に驚く。
「ええ……?」
「絶対にだめです! 持ち上がらなかったら恥ずかしくて死んじゃいます! もし旦那様の細い腕が折れちゃったりしたら……!」
頬を赤くして、それを両手で押さえ、瞳を潤ませる淡雪は可愛い。
やっぱりナデシコの撃墜王とはどこもかしこも違うとほっとした。
「大丈夫ですよ。淡雪さん一人ぐらい僕でも……」
「ですから、私が代わりに抱っこしますね! 大丈夫です、昔は弟を背負ったまま家事をしていましたから!」
淡雪が「えいっ」と可愛い声を出して、片腕で紘人の膝をすくい、もう片腕で背中を支えた。
紘人は、ひょいと持ち上がった自分の身体に言葉を失う。
「男の人って重たいですね……!」
淡雪は驚いたと言っているけれど、紘人はもっと驚いていた。
慎ましく暮らさなければならなかった可愛い嫁は、米袋や味噌を自分で買いに行っていて力をつけたのだろうと、なんとか納得しようとする。
淡雪はというと、紘人を降ろしながら、なぜか嬉しそうな顔をしていた。
「昨夜、お仕事でちょっと失敗してしまって落ち込んだのですが、旦那様のお顔を見たら元気が出ちゃいました」
「……本当に? 大丈夫ですか?」
心配そうな顔をする紘人に、淡雪は明るい声で答える。
「大丈夫です。転びそうになったところを男の人に助けてもらったんですが、怒られてしまって……」
「そんな冷たい人が宮中にいるんですか……!?」
紘人が信じられないと呟くと、淡雪は慌てて「私が悪かったんです」と付け加えた。
「声が旦那様に似ている気がしたんですけれど、やっぱり違いますね。旦那様はとても優しいですから」
ヤマトとナデシコに所属する者は、家族にも正体を秘密にしなければならない。
帝都で一番のおしどり夫婦である、病弱で優しい旦那様と可愛い若奥様は、ヤマトの冷酷無比の部隊長とナデシコの撃墜王であることを秘密にしたまま、今日も幸せに暮らしている。